大野城をあるく(太宰府口城門)
更新日:2019年10月21日
(広報「大野城」 平成23年6月15日号掲載)
市名の由来となっている大野城跡は、『日本書紀』に長門城と基肄城とともに築城されたことが記されています。天智天皇4(665)年のことで、築城は百済の亡命貴族が指導し、朝鮮半島の山城の技術が用いられていることから、朝鮮式山城と呼ばれています。城内には、城門や礎石群など多くの施設が残されています。
このコーナーでは、大野城跡に点在する城門などの見どころを紹介していきます。今回は、太宰府口城門を取り上げます。
太宰府口城門は、大野城跡の中でも最も大規模な門です。
しかし、発掘調査を行う前は、現在城外側に残る石敷きしか確認されていませんでした。
楼門構造と考えられるその姿が明らかになったのは、昭和60年から4年間かけて行われた九州歴史資料館による発掘調査でした。
城門は大野城が機能していた時代には三時期にわたる変遷がありました。
1期城門は長さ、幅ともに約9メートルの掘立柱構造であることが分かり、柱は1期石積の内側に配置され、そのうちの一つには径50センチメートルのコウヤマキの柱根が残っていました。
伐採された年を調べたところ、648年以降に切られており、「日本書紀」の築造年代に近い時代であることが分かりました。また、柱根には「孚石部」と読める文字が刻まれており、その意味が論議されています。
2期城門は、1期城門を礎石構造に作り替えたものです。約5・25×5メートルと、1期城門より縮小され、四隅に配された礎石のうち城外側の石敷きと1期石積をつなぐように壁状の石積(2期石積)が見つかっています。
礎石には、直径約50センチメートルの円形の柱座と長方形の方立が掘りこまれています。
城外側の礎石には扉を受ける軸受金具を据える方形の穴があり、これにより扉は城内へ向かって開く構造であったことが分かります。
3期城門は、2期城門の構造を引き継いでいます。異なるのは、四隅の礎石を結ぶラインまで石積(3期石積)を行うことです。現在、我々が見ている太宰府口城門はこの3期城門・石積の姿で、1期城門に比べ幅が狭くなっているのが分かります。
城門をくぐり城内側へ進んだ位置では柱穴列が見つかりました。2期城門の時期にあたると考えられ、目隠し塀のような機能が考えられています。また柱穴列より城内側には石列があり、ここまでが城門の範囲と考えてよいようです。
城内に入ると、すぐ谷部に至ります。この谷部は近年まで水田として使われていました。右手には外周土塁と内周土塁が見え、土塁へ向かって上がる山道も検出されていることから、城内へのルートが推測されます。
このほか、城門の調査では多量の瓦や鬼瓦、3期城門の地鎮具と考えられる鉄製の鋤先などが出土しています。
注:大野城跡へのアクセス方法は関連リンクを参照してください。
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