大野城をあるく(北石垣・北石垣城門)
更新日:2019年10月21日
(広報「大野城」 平成25年1月15日号掲載)
北石垣と北石垣城門の位置
大野城の南北には土塁が二重にめぐる部分があります。今回紹介するのは、北側の百間石垣から東に連なる内周土塁上に位置する北石垣と北石垣城門です。
二度の被害と城門の発見
文化3年(1806)年の「太宰府旧蹟全図」には「石カキ谷」の名が記されており、北石垣の存在は江戸時代から知られていたことが分かります。昭和47年の豪雨による土砂崩れをきっかけとして、昭和54年に九州歴史資料館による調査が行われました。その際、石垣の残存状況や構造などが確認されました。
その後、平成15年の豪雨でも前回以上の大きな被害を受けたため、平成18年には3カ所で調査が行われました。その結果、西側の2カ所で前回確認された石垣の下側に新たに版築盛土が見つかり、上段の盛土と石垣はこの下段盛土を基礎として階段状に築かれていることが判明しました。また、これまで2カ所に分かれると考えられていた北石垣が、全長約45メートルにわたる一連のものである可能性が高くなりました。
最も東側の調査区では、土塁の途中に大きなくぼみがあることが分かりました。遺構がある可能性が高かったため詳しく調査を行ったところ、石垣とともに最下層から門の礎石が出土しました。これが北石垣城門です。
北石垣城門と国内初の発見
北石垣城門は普通の城門とは違い、門のすぐ外側が高さ約1.4メートルの石垣になっています。このままでは通れませんが、普段ははしごや階段をかけて使用し、敵が来たときにはそれを取り外すことで城内への侵入を阻む「懸門(けんもん)」という構造であったと考えられています。
調査では東西の礎石が元の位置のまま見つかりました。礎石は掘立柱式で、方立穴と扉の回転軸を受けるための軸摺穴が掘り込まれています。
さらに、東側の礎石からは軸摺穴にはまった状態で鉄製の軸受金具が発見されました。軸受金具は朝鮮半島ではいくつかの出土例がありますが、日本国内ではこれが初の発見でした。
軸受金具の高さは約26センチメートル、重さが12.8キログラムで、礎石にはめ込む下半分は角柱状、扉を受ける上半分が坊主頭のような形をしていて、朝鮮半島で出土するものとほとんど同じ特徴をもっています。しかし成分分析を行ったところ、原料に鉄鉱石と砂鉄の両方が使われており、日本国内で作った鉄が使われていることが分かりました。このため、百済から亡命してきた工人が日本で軸受金具の製作に携わった可能性も指摘されています。
北石垣・北石垣城門の立地や構造からは、外敵に対する万全の備えがみてとれます。度重なる豪雨にみまわれた大野城。今後は私たちの方が災害から大野城を守っていかねばなりません。
礎石と軸受金具(礎石手前が城門側)
注:大野城跡へのアクセス方法は関連リンクを参照してください。
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