おおのじょうの遺跡/御笠の森遺跡(よみがえる400年の遊び)
更新日:2019年5月29日
羽子板(はごいた)と独楽(こま)
羽子板と独楽
御笠の森遺跡からは江戸時代のはじめごろの「羽子板(はごいた)」、「独楽(こま)」、「碁石(ごいし)」が発見されました。
- 羽子板:長さ約30センチ、幅約7センチ
- 独楽:長さ約4.5センチ、幅約2.5センチ
- 碁石:径約1.5センチ、黒色
こうした昔なつかしい遊び道具が遺跡から発見されることは大変めずらしく、特に九州内では羽子板と独楽はほとんど例がありません。こうした遊び道具は、どういう歴史をたどり、この遺跡にやってきたのでしょうか?
遊び道具の歴史
今でも残る遊び道具として、はっきりわかるもののうち、一番古いものは奈良(なら)時代(約1300年前)や平安(へいあん)時代(約1000年前)の遺跡から見つかっています。当時の都(みやこ)ではすでに木製のとんぼ(現在の竹とんぼ)やサイコロ(すごろくに使っていた)、将棋(しょうぎ)の駒(こま)と一緒に、独楽(こま)や碁石(ごいし)も発見されています。これらの遊び道具は、都に住むごく一部の身分の高い人によって使われていたと考えられます。また、単なる「遊び」だけではなく、「まじない」的な性格が強かったと思われ、中国や朝鮮の進んだ文化とともに日本に伝わってきたと考えられています。
やがて鎌倉(かまくら)時代(約800年前)や室町(むろまち)時代(約600年前)になると、各地の地方都市でも遊び道具が見つかっています。この時代には、羽子板や素焼(すや)きの人形(ひな人形か)も発見されています。
さらに江戸(えど)時代(約400年前~)になると、遊び道具の種類も多くなり、私たちがイメージする伝統的な遊び道具はほとんど出そろっています。この時代には江戸(東京)のような大きな都市はもちろん、地方の町屋(まちや)などでも数多く発見されるようになり「遊び」が身分を越えた存在になりつつあることがわかります。
御笠の森遺跡の「遊び」
御笠の森遺跡全景
羽子板が見つかったところ
こうして歴史をみてみると、時代が新しくなるにつれ羽子板や独楽のような遊び道具が、庶民階層(しょみんかいそう)まで広がっていくようです。
御笠の森遺跡の羽子板と独楽は、江戸時代はじめごろのものですが、遊びの歴史から見ると、都市部の一般庶民(いっぱんしょみん)まで広がりつつあった頃と考えられます。
では、御笠の森遺跡は江戸時代の都市だったのでしょうか?当時の古文書(こもんじょ)を調べてみると、この遺跡が「山田村」の一部であったことがわかり、また、江戸時代の終わりごろの記録によれば、ほとんどが農民であったことが記されています。ということは、すでに農村部(のうそんぶ)でもこうした遊びがひろがっていたことになるのです。
江戸時代の農民といえば、貧しいイメージがつきまといますが、今回の発掘調査によって、子どもたちが独楽回(こままわ)しや羽根突(はねつ)きで遊び、大人は囲碁(いご)を楽しむという一面がみえてきました。ほのぼのとした光景が目に浮かぶようです。今回の発見によって、当時の遊び道具の広がりと山田村の豊かさがわかってきました。
今後の発掘調査が進めばもっと詳しく当時の生活風景が見えてくるでしょう。成果を楽しみにお待ちください。
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