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大野城歳時記/11月の行事「七五三」

更新日:2018年5月14日

11月の行事「七五三」

毎年11月15日に近い土曜日・日曜日になると、晴れ着に身を包み千歳あめを下げた子ども達の姿と、その手を引くうれしそうなお父さんやお母さんの姿をみかけます。七五三とは、氏神(うじがみ)様にお参りし、子どものすこやかな成長を感謝し、将来の幸福を祈る行事です。

太宰府天満宮で撮った七五三の写真(現在の様子)太宰府天満宮にて(現在の様子)

七五三とは?

現在のような七五三が行われるようになったのは、江戸時代からといわれています。それ以前は、三歳男女児の「髪置(かみおき)の祝」、五歳男児の「袴着(はかまぎ)の祝」、七歳女児の「紐落(ひもおとし)の祝」など、さまざま行われていました。江戸のように地方から人々が集まるところでは、地域の風習を継承することが難しくなり、七五三というまとまった形で行うようになりました。

どのようなお祝いだったのか?

髪置(かみおき)の祝とは、それまで髪を剃っていた子どもが三歳を迎えた日から髪を伸ばし始めるお祝いのことです。
袴着(はかまぎ)の祝とは、初めて袴を身につけるお祝い。
紐落(ひもおとし)は帯解(おびとき)ともいい、それまで付け紐で着ていた着物を帯でしめるようにすることをさします。
「七つ前は神の子」という民俗的思想があるように、七歳は子どもの成長の節目とも考えられていました。七歳未満の子どもはいつ他界するかもしれないという不安が付きまとっていたようで、七歳を無事迎えたことはこの世界に定着したことを示していたと考えられます。
これらのお祝いは、公家(くげ)や武家(ぶけ)の間で行われていましたが、江戸時代になると町民の間でも行われるようになり、氏神様にお参りする風習ができました。

なぜ11月15日か?

1681年(天和元年)の11月15日に将軍徳川綱吉の子、徳松の祝いを行ったことから、江戸の町に定着してきた七五三のお祝いは、この日に行われるようになったという説もあります。それ以外にも、11月は農作業が一段落し収穫のお祭りをする時期にあたり、15日は多くの祝祭日のある満月の日であったために、この日が選ばれたともいわれています。

千歳あめはいつからあるの?

千歳あめは、紅白の細長いあめが松竹梅や鶴、亀などの描かれた袋に入った縁起物で、千年あめや寿命あめとも言われ、その名前や形から、子どもが長生きしますようにという願いが込められていることがうかがえます。千歳あめが初めて売り出されたのは、1615年(元和元年)に大阪の平野甚左衛門が江戸に出て商ったという説と、元禄、宝永年間(1681年から1711年)に江戸・浅草のあめ売り七兵衛が千年あめを売ったという説があります。

いつの時代にも、子の成長を願う親の気持ちに変わりはないようです。

このページに関する問い合わせ先

教育部 ふるさと文化財課 啓発・整備担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

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