メニューにジャンプコンテンツにジャンプ
大野城市

トップページ > 大野城市の紹介 > 歴史と文化財 > 特別史跡 大野城跡 > 西谷 正先生に聞く 1350年前の大野城市に何があった?

西谷 正先生に聞く 1350年前の大野城市に何があった?

更新日:2019年8月19日

大野城や水城ができた時代、大野城市はどのような様子だったのか、(仮称)大野城心のふるさと館整備検討委員会委員長の西谷 正先生にインタビューしました。(このページに掲載されている内容は平成25年当時のものです。)

西谷先生の写真

西谷先生プロフィール
1938年大阪府生まれ。
1966年京都大学大学院修士課程修了。
現在、海の道むなかた館長、九州大学名誉教授、九州歴史資料館名誉館長、糸島市立伊都国歴史博物館名誉館長。

聞き手 舟山良一さんの写真

聞き手 舟山良一
歴史をつなぐ事業推進室

白村江(はくすきのえ)の戦いに私たちの祖先も出兵

  • 舟山
    平成26年が水城が造られて1350年、平成27年が大野城が造られて1350年ということで、大野城市だけでなく太宰府市と近隣の市町とともに1350年事業を計画しているのは先生もよくご存知のとおりで、また先生からのお力添えもいただいているわけですけど、その大野城・水城ができるきっかけとなった白村江の戦いから今年はちょうど1350年です。
    そのことからお尋ねしたいと思います。
  • 西谷
    白村江の戦いは663年で7世紀後半ですね。
    やがて、律令制的な古代国家ができ上がって行く時代ですよね。
    日本は当時の先進地域である朝鮮半島、特に西南部にあった百済(くだら)とは友好・同盟の関係にありました。
    その百済が新羅(しらぎ)や、新羅と手を結んだ唐の圧力を受けて滅亡の危機にひんしたという、それはもう助けないと、ということで、軍隊を送って新羅・唐の連合軍と戦う、それが白村江の戦いということですね。
  • 舟山
    白村江の戦いの時、『日本書紀』によると倭(わ)(日本)は2万7千人とか1万人の兵を送ったとか書いているわけですが、そんなに多くの兵を本当に送れたのでしょうか。
  • 西谷
    2万7千人とか大軍ですよね。
    本当のことはなかなか難しい問題ですが、私はその数値は案外史実じゃないかと思っているんです。
    というのは、白村江より60年ほど前ですけど、新羅との間に緊張状態があって、推古(すいこ)天皇が来目皇子(くめのみこ)を将軍にして新羅に軍隊を派遣しようとするんです。
    『日本書紀』では、その時に2万5千人と出てくるわけですよ。
    国家間の紛争という場合、2万人くらいのレベルは私は史実ではないかと思っています。
    でも2万7千人というのを史実と仮定した場合に、船は何百隻でしょうね。
    大水軍を想定せざるを得ないですね。
  • 舟山
    人数は史実に近いのではというお話ですが、兵は九州出身者あるいは、大野城市とか福岡市とかこの近辺からも出て行ったと推測できるんでしょうか。

白村江の位置のイラスト

白村江の位置

  • 西谷
    もちろんそうだと思いますね。
    これはさっき申した来目皇子を将軍とした時には諸々の神部(かんべ)および国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)らと書いてあるんですが、後の宗像郡は神郡(しんぐん)で神部がいるんですね。
    国造は、筑紫国造(ちくしのくにのみやつこ)とか肥国造(ひのくにのみやつこ)とかそういう地方豪族でしょうね。
    伴造は手工業の専門技術者で船とか武器を作る連中です。
    白村江の時はどこから集めたかが問題ですが、やはり直接的には北部九州を中心とした九州の豪族が多かったと考えるのが自然じゃないかと思います。
    玄界灘を渡るわけですが、彼らはこの海域や韓国のことをよく知っていたでしょうからね。
  • 舟山
    そうしますと、大野城市のというか、我々の祖先も行ったということは十分に考えられるということですか。
  • 西谷
    十二分に考えられますね。大野城市とかこの辺で普段は百姓をしています。
    いざという時は動員されて歩兵として乗っていく、そういうことではないかと思うんですけどね。
  • 舟山
    白村江が急に身近になってくる気がします。
    その白村江で倭(日本)が負けるわけですけど、中国や韓国の史書を見るとかなり具体的です。
    「海戦の結果、倭は船を400隻失った。
    そして海が赤くなった」と書かれています。
    赤くなったという点については、兵の流す血で赤くなったのか、船の燃える炎が水面に映って赤くなったのか、どちらでしょう?
  • 西谷
    私はやっぱり火だと思います。
    というのは、広い海ですからね。
    人間の血が一人にどれくらい出るかは知りませんけど、その場でもう消えてしまいますよ。
  • 舟山
    それから『日本書紀』をみると結構戦い方はいい加減ですよね。
    日本の将軍と百済の王が状況を見ず突っ込んだら、両脇を唐の水軍に囲まれ、あっという間に大敗した、と書いてありますから、あんまり肉弾戦ではなく、矢を射られたりして燃やされたんではないかと思います。
  • 西谷
    仮に肉弾戦があったとしても、傷をうけて血が出て犠牲になるというのは、一部だと思います。
    やっぱり、慌てふためいて船から落ちて溺れ死ぬという方が多かったと思うんですよね。
  • 舟山
    生々しい戦いの様子が想像できますね。

大野城・水城は国家プロジェクト

大野城物語の舞台(百間石垣)の写真

大野城物語の舞台(百間石垣)

  • 舟山
    こういう敗戦のため新羅や唐から攻められるかもしれないということで大野城・水城が造られたわけですね。
    いよいよ大野城・水城についてお尋ねします。
    最初にそれらで守ろうとした大宰府にはどんな人が住んでいたんでしょうか。
  • 西谷
    大野城市も現在の宗像市も、そこには何万年も前から多くの人たちが営々と築いた歴史がありますね。
    そこに突然ヤマト王権の国策上外交拠点として、あるいは、九州全域の統治を目指して、出先を作るわけです。
    そして、そこには中央から長官とか階級の高い人が派遣されてきました。
    さらに身分はちょっと低いけれども現地で採用された人もいたでしょうね。
    『日本書紀』では白村江の戦いの前に斉明(さいめい)天皇が九州に来ていますね。
    朝倉の宮で亡くなっているわけですが。
  • 舟山
    先生には、大野城市で「古代山城サミット」を開催したときに『大野城物語』の監修をしていただきました。
    あれはもちろんフィクションですが、大野城を築城するときの様相というのはあの本のような状況と思ってもかまわないでしょうか。
  • 西谷
    まあ、なかなかやっぱりわからないことが多いですよね。
    『大野城物語』はフィクションということでできているわけですが、『日本書紀』のような文献史料、あるいは考古学の資料がベースになっていますので、一つの想像の世界として、あれはあれでいいと思うんですけどね。
    今後新しい発見があってちょっと訂正することは当然起こるでしょうけども。
    宗像市も『大野城物語』を参考にしていて『季刊 邪馬台国』という雑誌にまんがを連載中です。
  • 舟山
    日本の古代の山城は西日本に偏って20いくつかあるわけですけど、朝鮮半島には2、000もあると言われています。そもそも、山城の起源はどこなんでしょうか。
  • 西谷
    日本の古墳時代にあたる、朝鮮半島の三国時代で、まず高句麗(こうくり)が誕生します。
    その高句麗は中国や北方の遊牧民族の圧迫を受けるのです。そこで山城を築くわけですね。
    それが始まりですよ。
    そして百済、新羅や加耶(かや) 、さらに日本まで伝播するわけです。
    朝鮮半島では、歴史的に度々異民族や外国勢力の圧力を受けますから山城が非常に発達するんですね。
    日本の場合は島国で外国から攻められることはほとんどありませんでした。
    そういうところで山城は発達しなかったんですね。
    ただ百済が滅んだ後で唐と新羅が攻めてくるかも知れないというんで、大野城・水城などが造られました。
    都から離れた所で最前線として造られているわけですね。都を守りあるいは国を守るというそういう性格なんですよね。
    新羅で立派な城を造っていて、こっちも造らないとやられますからね。
    向こうが戦車ならこっちも戦車を使わないと、向こうが竹やりならこっちも竹やりでいいけど。
    向こうが山城ならこっちも山城ということですね。
    対等に戦うためには対等の戦術というか、朝鮮半島と同じ山城を造らないと、ということですね。

大野城と水城の写真

大野城と水城

  • 舟山
    なるほど、わかりました。
    大野城は朝鮮式山城と言われますが、石積みなど技術は百済の技術という言い方をしてもいいのでしょうか。
  • 西谷
    ええ、あれは『日本書紀』に百済の技術者が指導したと書いてある記録と、実際に大野城をみてみると百済の山城と共通したものがありますね。
    ですから、これは、遺跡と文献史料の両方が合致しますから。
    あれは「朝鮮式山城」と一般的には言われていますが、私は「百済式」というべきだと言っているんです。
    舟山 次に水城ですが、敷き粗朶(そだ)工法という軟弱地盤に土塁を築くときの工法が発掘調査で確認されてますけど、韓国で遺跡の実例などを挙げていただければと思いますが。
  • 西谷
    水城も当然、大野城と同じように百済の技術指導があったと思います。
    その技術体系の一つに敷き粗朶工法があるわけですね。
    百済の最後の都、現在の扶余(ぷよ)で敷き粗朶工法が見つかっています。
    都全体を取り囲んでいた城壁を羅城(らじょう)といいますが、その城壁の下から見つかっています。
    扶余羅城ですね。
  • 舟山
    やはり水城のことですが、博多側には幅60m の濠があったと言われています。
    でも水城全体の標高を見ると、真ん中の御笠川の所に比べて、西と東の土塁の付け根の部分は標高でいうと7メートル ほど高いんです。
    そうしますと、水はみんな御笠川に流れてしまって、たまらないと思うんです。
    どういう工夫があったのでしょう。
  • 西谷
    それは、水城の北側の濠を発掘しているときに指導委員会で私が言ったことがあるんですけど、高低差があるから途中に堰(せき)があったんじゃないかと。
    新羅の都の月城(げつじょう)の外堀で見つかっているんですよ。
  • 舟山
    いつか発掘調査で確認したいものです。
    次に、『日本書紀』によれば水城は西暦664年、大野城は1年後の665年に造ったと記されているわけですけど、1年くらいで造れたものでしょうか。
  • 西谷
    私は、築造開始と思ってます。
    それから何年かかかっていると思うんですよ。
    もちろん、国家的な一大プロジェクトで緊張事態に対応しなければいけないから、あんまり長くはかかってはいないと思うんですが。
    新羅に三年山城という山城があるんですけれども、造るのに3年かかったからその名があると史書に記されています。
    周囲が700メートルくらいの小さな城ですけどね。
    高句麗最後の都の平壌城だって羅城の完成までに23年かかっているんですよ。
    まあ1年ではできないというのは間違いないと思いますね。

水城跡復元図と「水城」銘墨書土器 (九州歴史資料館提供)の画像

水城跡復元図と「水城」銘 墨書土器 (九州歴史資料館提供)

  • 舟山
    その工事に携わった人はどのあたりから動員されたのでしょう。
  • 西谷
    それはなかなか分かりませんね。
    でも、まあ近くからが多く、遠くなるほど動員数が少なくなるでしょうね。だから、大野城市の人たちが一番多く徴兵され、動員されたでしょう。それは、近場だからですよ。
    近くの人なら家に帰ってごはんを食べれるけど、遠くの人なら食事を出さなければならないからですね。
  • 舟山
    話は変わりますが、大野城のある四王寺山の麓(ふもと)近辺の乙金からは、7世紀の新羅の土器が結構見つかるんですよ。
    大野城は百済貴族の指導で造られたと言いながら新羅の土器が見つかるんです。
    これはどういう風に考えればいいんでしょうか。
  • 西谷
    ひとつはね、やっぱり、大野城・水城に来るのは百済の高級官僚だと思うんですよね。
    そういう連中は手ぶらで来るんじゃないですか。
    それに対して、乙金なんかはね、こういう言葉は適切でないかもしれませんが、あの辺りに住んでいた人は新羅と独自な交流を持っていてね、そういうことと関係しているんじゃないでしょうか。
  • 舟山
    国家間では緊張状態にあっても民間では行き来していたということですか。
  • 西谷
    そうそう。
    筑紫国造磐井(いわい)の反乱の場合もそうですよ。
    北部九州の大豪族だった磐井は新羅と仲がよく、ツーツーだったのです。
    ですから、国家レベルでは新羅と戦争しているけど、一地方豪族は独自の交流ルートを持っていたんですね。
    そのように国家レベルと民間レベルという二重構造です。
    民間レベルの交流が大事なんですね。

1350年前の暮らし

  • 舟山
    よくわかりました。
    最後にその頃の一般の人たちの生活についてお尋ねします。
    まず衣食住ですね、住まいは竪穴住居跡などが見つかりますが、食べ物や着る物についてどういったものでしょう。
    ごはんはおなかいっぱい食べられたんでしょうか。

当時の鍋(土師器(はじき))の写真

当時の鍋 土師器(はじき)

  • 西谷
    住は発掘調査で竪穴住居がいっぱい出てくるわけですね。
    『万葉集』にも竪穴住居に竈(かまど)があるようなそういう風景が描かれていますね。
    食は弥生時代に稲作が始まって以来、ご飯を炊いたでしょう。もちろん山に行けば鹿や猪がいたでしょうし、海の幸もあったでしょうね。
    ただし、おなかいっぱいかどうかはわかりません。
    一日三食になったのは、室町時代からなんですよ。
    衣服はね、一般的には埴輪に見るような衣服でしょうか。
    戦争にどんな武器を持って行ったかは、出土品から想像するのがいいでしょうね。

対談の写真

  • 舟山
    きょうは普通あまり本に載っていないことをたくさん聞かせていただきました。
    史料がなく答えにくいことが多かったと思いますが、大変興味深く聞かせていただきました。
    これを契機として市民のみなさんに大野城・水城にさらに関心をもってもらい、協働で、多くの人に喜んでもらえるような大野城・水城1350年事業を計画していきたいと思います。
    ありがとうございました。

このページに関する問い合わせ先

教育部 ふるさと文化財課 啓発・整備担当
電話:092-558-2206
ファクス:092-558-2207
場所:大野城心のふるさと館1階
住所:〒816-0934 福岡県大野城市曙町3-8-3

このページに関するアンケート

情報は役に立ちましたか?
このページは探しやすかったですか?

注意:
こちらは問い合わせ用のフォームではありません。業務に関する問い合わせは「メールでのお問い合わせはこちら」をクリックしてください。